PIRKA SIRI

●10/アイヌ民族への差別と、ごく個人的な思い
 皆さんも1度は耳にしたことがあるかもしれません「アイヌ差別」という言葉。
 僕個人の無知(無恥)も含めて、誤解を承知でここに少し書いていこうと思います。

◆アイヌ差別ってなんだ?
 アイヌ民族の差別は、いくつかの理由で受けることになってしまったと思っています。その中でも、ここでは分かりやすい例を並べます。
1)たまたま文字を持たない民族であったこと
 「文字を持たない」=「無知」=「遅れている・未開」=「文字を持つ和人のほうが優秀」と思われてしまったのでしょう。また、そのように思い込まされてしまった、とも言えます。
 ただし、これはおもに和人のほうが逆に「大いに無知」であったためといえるでしょう。この星では、文字を持たない民族のほうが持っている民族(人種)より多いのですから。
2)その優しさゆえ、和人に抑えつけられてしまったこと
 と書けば綺麗すぎるでしょうか。
 もともと狩猟・採集・交易民族であったアイヌ民族ですが、その文化構造のなかで重要な要素があります。それは「相互扶助」です。読んで字のごとく、お互いに助け合う、という精神です。厳しい自然環境(特に北海道や東北)の中では、助け合わなければ生きていけません。
 その助け合う心を、良いように利用されてしまったのではないでしょうか。悪く言えば「お人好し」ということになりましょう。「お人好しさ」につけこまれ、果ては「奴隷」にされてしまいました。
3)とくに和人にとって、アイヌ民族の風貌が異質であったこと
 民族としての個性だと僕は思いますが、寒い地域に比較的薄着で暮していたためでしょうか、アイヌ民族には体毛が目に見えてはっきり分かる人達が多かったのではないのでしょうか。また、そうした習慣もあって、男性はヒゲも大いにたくわえていました。ゆえに、いきおい「ケモノ」のように荒くれたイメージを与えてしまったかもしれません。これも、和人の「無知蒙昧さ」から来ていると言わざるを得ません。



 さて、この他にもいろいろと事由はあるでしょうが、ともかく、こういった無知や思い込みなどのおかげで不等な扱いをうけることとなってしまいました。このような差別は特に江戸時代のころから急激におおきくなったように見受けられますが、さらに明治の時代に入り、近代化された時代となってからも続き、おそらくは今、現代においてもそうした意識は残っているといえます。
 それでは今現在、どのくらいの差別を受けているのでしょうか。量で計られるようなものではありませんが、ともかく、ある調べでは、アイヌ民族の中では、自分が差別を受けたことがある、と思っている人もいれば、過去に自分が差別を受けたことはなかった、と思っている人もいます。ですが、現在でも差別がある、と思っている人はアイヌ民族のなかでは大多数の意見として出てくるようです。
 具体的な差別の例はともかく、アイヌ民族の中でも差別の体験の「ある・なし」が見え隠れするのが現在の姿のようですが、それでもまだ差別があるのだ、といえそうです。



 こうなった背景には過去の和人の無知さと、現在まで何も保障してこなかった国の責任も問われることと思います。また、近代では教育の場などでも、アイヌ民族を先住民族として啓蒙を計らなければならなかったでしょう。さらにそれにあぐらをかく私も含めた日本人(とりあえず区切りとしての日本人、という意味)の姿も見えてきます。



 ところで、先程すこし出てきましたが、なにを持ってして「日本人」だとか「アイヌ民族」とか区別するのでしょう?
 どこまでが日本人?どこまでがアイヌ?正直、私にもわかりません。DNA鑑定でもしまするのでしょうか?それでは、それ(区別)をして、なにがどうなるのでしょう?付き合方でも変えますか?それこそ差別であり、本末転倒ですよね?

 それでは何を持ってして区別をするのでしょう?つまりは、それぞれの習慣や精神、考え方といったようなものを受け継いでいることのほうが、アイデンティティーとして大事なようにも思います。勘違いしてほしくないのは、だからといってアイヌ文化さえ残っていれば良い、などとは僕個人まったく考えていない、ということです。


◆結論、か?
 では、僕個人はどうアイヌの方々と接してきたかといえば、何も特別なことはしてきませんでした。過去の和人のしてきたことを詫びるということや、一緒にアイヌ民族復権の活動をしたことも、失礼な書き方かもしれませんが、施し、などという馬鹿なことも考えたこともありません。
 ステレオタイプだと言われるのを承知で書きますが、もともとがナチュラリスト気取りの僕にとっては、アイヌ民族が今も昔も持っている、自然への考え方・習慣の「アイヌプリ」というものに共感を覚え、また尊敬もしてきました。
 それよりもまず「人」として出会った以上、相手を敬い尊重するのは、「アイヌプリ」を知らずに生きてこられたアイヌ民族の方だとしても、アイヌだ和人だという以前の問題で、人と接する上で当たり前の一般常識のレベルだと思うのです。
 つまりは、同じ「人間」としておつき合いし、また、そこに「アイヌプリ」を実践されていらっしゃる方であれば、それはそれで僕の知らない(知り得ない)すばらしい(と僕個人は思う)考え方を持った一個の人として接する、ただそれだけなのです。



 「アイヌはもっと日本政府から補償してもらうべきだ」とか、
 「和人はアイヌに謝れ」とか、
 「和人の学者とは口を聞かない」とか
  (以前、阿寒で間違われました。悲しかったな。大体学者じゃないし・・・)
 正直、そんなことは僕にはどうでも良いことなのだ。
 だから何なのだ。
 ただお互いそこにあれば良いじゃないか。

 と思うのです。



 でも、です。
 アイヌプリやそれを伝承し、また実際にアイヌプリとともに生きていらっしゃるアイヌの方々。
 僕の尊敬してやまないこうした方々が差別の対象になり、またいまでも心に傷を受け続けている以上、それ自体をただ淡々と受け入れる気にももちろんならない、という思いが、僕の心の内にあるのも事実です。
 「アイヌはもっと日本政府から補償してもらうべき」だろうし、
 「和人はアイヌに謝ら」なくてはならないでしょうし、
 「和人の学者」がしてきたことで許されないこともあるでしょう。

 こうした思いを抱きながら、それでも同じ「人」として接していきたい、ただお互いそこにあるのだから。
 と思っています。



 さて、思っていることがうまく伝えられない、未熟な文章ではずかしいのですが、ともかく、僕個人の思っていることの少しでも理解していただければ幸いです。
 色々とご意見もおありかと思いますが、この件に関しての質問などは受け付けたくありません。誤解が誤解を生むような気がしてなりませんから(ああ及び腰)。
 ただ、それでも物申したい!というかたは下記宛まで御一報ください。ただ、返事は一切期待しないでください。書く気もないですし。



 
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